山田一雄

忙しい折に聞いているのが山田一雄である。
疲れているときに、聴くと元気が出るのだ。本当に疲れ果てて、もう行き詰まった気持ちでベッドに入っていても、翌日の朝起きた後にこのジュピターを聴くと、不思議と「今日はなんとかなる」気がするのだ。
ここまでおしゃれないい音楽を聞いたら、さすがに放っておけない。
いい音楽というのは耳について、頭の中に残っているもの。
さいころ耳にして、頭の中に強烈に印象に残っている音楽を、大学に入って聞き直してみると、この人の歌だったとか、この人の演奏だったのかとかなりびっくりする。
歌でいうと、例えば美空ひばり(相当影響されて、演歌っぽい歌い方、ため方に1993年頃なっていた)、喝采ちあきなおみ忌野清志郎(多分1992年ごろ最初に耳にしている、清水建設のCMの「パパの手の歌」など)、ブルーハーツ(1992年ごろの「夢」が頭の中に残っていた)、岩崎宏美(声の伸ばし方と音程が特にはっきりと残っていた)、小椋佳など様々に頭の中に残っている。
恐らく、頭の中に残っていたということは、知らず知らずのうちに影響を受けていたのだろう。
演奏で頭に残っていたのは、チェロのピエール・フルニエと、バイオリンのジノ・フランチェスカッティ、そして間違いなく、頭の中に残っていたのが山田一雄である。
死去したのが1991年だから、どこかで耳にしているはずだと思うが、どこで耳にしたかの映像記憶はないので、はっきりとはわからない。
でも、間違いなくどこかで耳にしていて、頭の中に残っている。特に旋律の歌わせ方。
こんなにいいモーツァルトのジュピターはなかなか聴けない。
カール・ベームウィーンフィルのものもYou tubeにあるけれど、それよりも特に1楽章、4楽章の出来が良いのではないかと思う。4楽章のコーダの部分の盛り上げ方、そして繊細な部分、旋律の歌わせ方など、全体的にすばらしい。
ジュピター1楽章

2楽章

3楽章

4楽章

特に奇をてらってないのだけど、いいものはいい。
僕のバイオリンの先生に、1年前の今頃だったか、尋ねたことがある。
「いい音楽とは、何でしょうか?自分の音楽とは、何でしょうか?」
そのとき、優しい顔の中に鋭い眼をして言われたのは、
「あなたの普通と思うこと、普通の音楽を弾けばいい。自分が極めて普通にしているつもりでも、知らず知らずどうしようもなく、あふれ出てきてしまうものを本当の個性であり、(自分の)音楽というんだよ。それを君の場合は、技術とかそういうもの以上に、そこかしこに感じるけれどね。」
ちょうどシャコンヌを習っているときだった。
それを聴いた時、はっとなったのを今でも覚えている。
そういうものを感じられる音楽を、自分は元々頭の中に響かせていたのではないだろうか、と考え直した。
そういう普通にして出てくるものを感じる演奏がこれだ。
50年後、こういう演奏ができたらなあと思う。
山田一雄のCDは、もともとライブで燃えるタイプだったためか、ライブ録音の内容がすばらしく、最近になってようやく再評価が進んでおり、タワーレコードなどで、廃番になっていたものが少量ではあるが再版されている(でも宣伝がないから、埋もれてしまっている感じ)。どう考えても、もっと評価されるべき指揮者である気がする。
マーラーとかベートーベンとか、CDを買って聴いているのだが、大きい音楽を繊細さの積み重ねで作る人だなあと思う。何となくだけど、音楽はヨゼフ・カイルベルトっぽい音楽の作り方で、大きさを繊細さを基に実現した感じなのかな。映像見ればわかるように指揮に関しても「やってはいけない」をやっていたり、人物的にも逸話が本当に多かったりする人なのだが、音楽に注目すると、その大きさと繊細さのバランスの個性は唯一無二で、どこに行っても聴けない気がする。
以下、wikipediaより引用。

山田 一雄(やまだ かずお、1912年10月19日 - 1991年8月13日。本名、和雄。和男、夏精(かせい)を経て1968年に一雄と改名。)は、「ヤマカズさん」の愛称で親しまれ、朝比奈隆らと並んで日本のクラシック音楽界を支えた指揮者であり、作曲家である。

<生涯>
東京生まれ。1931年に東京音楽学校(現東京芸術大学)ピアノ科卒業ののち研究課程に進み、卒業後は同校で教鞭を取るようになった。在学中からクラウス・プリングスハイムに師事し作曲を学び、作曲関連の各種の賞を獲得。また、1939年には安部幸明、小倉朗らとともに自作や現代作品の演奏をメインとする音楽集団「プロメテ」を結成した(時節柄、たった2回の活動のみで解散)。

指揮活動は1935年にJOAKのラジオ放送で自作を指揮をしたのが最初であり、ジョゼフ・ローゼンストックの元で研鑽を積んだ後、1941年9月に新交響楽団(現NHK交響楽団)の補助指揮者に就任。直後の太平洋戦争開戦でローゼンストックの活動に制限がかかり、まず地方公演をローゼンストックに代わって指揮をするようになり、次いで1942年には、共演者とのトラブルで機嫌を損ねてしばらく休養することになった彼の代役として、ローゼンストックが出演をキャンセルした残りの定期演奏会の指揮を尾高尚忠とともに引き受けた。新響が日本交響楽団に改組後、尾高とともにローゼンストックを支える立場の専任指揮者となり、3人で日響の指揮台を守った。1944年に召集令状が来るがすぐに除隊。翌1945年には満州国に渡り、新京やハルビンのオーケストラを指揮した(当時、満州には朝比奈隆もいた)。ソ連軍が満州に侵攻する数時間前に伝馬船で大陸を脱出し、帰国した。

なお、自作を含むピアノ演奏も行なっており、指揮デビュー以前は新交響楽団でオーケストラ内のピアノ・パート(いわゆる「オケナカ」)を頻繁に受け持っていた。この時代、「オケナカ」は奏者の不足していたハープのパートを代奏することが多く、それが転じて自身もハープに興味を持って習得し、1940 年の「紀元2600年記念演奏会」にはハープ奏者として加わっている。晩年までパーティーの余興などでハープを披露する事があった。

日本に引き揚げ後は、以前と同様に日響の指揮台に立ったり、時間的な余裕が生まれたため作曲の筆を再開したりした。1949年にはマーラー交響曲第8番「千人の交響曲」を本邦初演するなど順調な活動を続けていた。ところが、1951年に日響がNHK交響楽団と改称される際、常任指揮者としてクルト・ヴェスが迎えられたことにより山田の立場は影が薄くなり、やがて山田はN響とは距離の置いた活動を繰り広げることとなった。まず大阪に移り、NHK大阪放送局のオーケストラの指導に当たり、次いで1956年にはニッポン放送の「フジセイテツコンサート」用オーケストラであるNFC交響楽団(在京オーケストラからの選抜メンバーで構成)を組織した。

1960年から首都圏へ返り咲き手始めに東京交響楽団、1966年から日本合唱協会、1968年から群馬交響楽団、1972年から京都市交響楽団の各音楽監督等を務め、1977年からは新星日本交響楽団の顧問(没後、新星日本時代・合併後の東フィル時代を通じて永久名誉指揮者)となるなど、多くのオーケストラとの共演を重ねた。1985年2月のN響定期公演で、病気で出演キャンセルしたオットマール・スウィトナーの代役として渡邉暁雄とともに出演し、十八番のモーツァルト交響曲第38番「プラハ」と、マーラー交響曲第5番を指揮した。山田がN響の定期公演を指揮したのはこれが最後となった(「N響」の定期への登場は、これ以外では1976年に一度あるのみである。但し、定期以外の放送枠、例えばNHK総合テレビの30分番組「プロムナード・コンサート」では1960年代からN響で頻繁に通俗名曲を指揮していた。)。1990年から翌1991年にかけて楽壇生活50周年を祝う各地のコンサートに出演。1990年11月26日のN響での祝賀コンサートが、山田とN響の最後の共演となった。
1991年7月に神奈川フィルハーモニー管弦楽団音楽監督に就任したが、わずか1ヵ月後の8月13日に急逝した。

<演奏スタイル>
山田の指揮スタイルはかなり個性的であり、晩年になっても変わらなかった。例えばベートーヴェン交響曲第6番「田園」の第一楽章を指揮棒を激しく振るわせて指揮した。指揮台でジャンプすることでも有名で、若い頃は数十センチほど飛び上がることができた。ジャンプに失敗して舞台下まで転げ落ち、指揮をしながら這い上がってきたという伝説もある(NHK交響楽団の名古屋公演で「レオノーレ序曲第3番」を指揮した際の出来事だといい、自伝「一音百態」で委細を語っている)。「千人の交響曲」初演では、ルパシカのような舞台衣装を身にまとって指揮をしたりもした。

「ナイーブな性格で、練習では非常に口やかましかった」「繊細な神経の持ち主だったが、弟子(石丸寛)には相当な愛情をかけていた」という楽員たちの回想もある。

マーラーの解釈は巨匠クラスで世界にも通用したと言われる。現代音楽にも造詣が深く、オリヴィエ・メシアンや松下真一でも演奏することができた。晩年には40歳ほど年下の南聡の新作を指揮している。