地獄のお話

さて、お盆に甥っ子のお世話をする機会があったので、お化けの話と地獄の話をしてみることにした。
お化けについては、微妙に岡山弁の入った「妖怪ウオッチ」あたりから話を導入してゆき、読み聞かせている絵本の「三枚のお札」から始めてみた。すると、小泉八雲の「怪談」の文庫版の表紙の幽霊の絵を見て持ってきたので、簡単に端折りながら「むじな」「耳なし芳一」まで、お話をしてみた。
3歳児には難しいかと思ったのだけれど、お化け、幽霊のお話しは、思ったよりも集中して聞くので面白い。
お盆ということもあり、いろいろお話のやり取りをしていると、「地獄ってなあに?」と聞かれた。
「一応、一般教養的には、三途の川を渡って、霊鷲山のくだりはまあ割愛して、閻魔様が裁判をしていて…」
となるのだが、なかなか地獄の描写のイメージを教えにくいことに気付いた。
「針山地獄というのがあって、針の山に登らされるんだぞ。」と言って、生け花の剣山を持ってきて触らせて、「ほら、チクチクして痛いでしょう。これに登らなきゃいけない。」と教えるのとか。うむ、何とか針山地獄については理解したらしい。
ただ、「石川五右衛門のように釜茹でにされる」「赤く溶けた銅を飲まされる」「なますのように切り刻まれる」と言っても、なかなか想像しにくいみたい。*1
仕方がないので、翌日図書館に行って、「地獄」の絵本を借りてきた。

絵本 地獄――千葉県安房郡三芳村延命寺所蔵

絵本 地獄――千葉県安房郡三芳村延命寺所蔵

霊鷲山のくだりは、山を旅するようになっているが、基本的な地獄の世界がきちんと押さえられており、良書。
閻魔大王の裁判のくだりで、浄玻璃の鏡まできちんと出てきて、菩薩の立ち位置やそれぞれの地獄の絵図まで、物語の設定の配慮が行き届いていて良かった。釜茹で、銅、なますのくだりも説明するには十分な、お寺の地獄絵巻からの抜粋。
いろいろな地獄へ落ちる因果関係が書かれているので、「野菜を好き嫌いしていると・・・」とか、適宜入れ込んでみると面白い。
読み終わってからの会話が、なかなか本質をついて面白かったので記録しておく。
「ねえねえ。」
「なあに?○○」
「地獄ってどこにあるの?」(※心の声『やばい、鋭い質問来た〜。』)
「そうだね。それは人の心のなかにあるものだよ。羨ましく思ったりしたときとか、腹がたったりするとき、幼稚園であったりするかもしれないね。そのときに意地の悪いことを考えたり、してしまったりするときも、あるでしょう。」
「うん。」
「そのときは、まだよくても、あとで思い返してみたら、なんだか心が苦しくなったりするときもあるでしょう。そんなときに、自分の地獄は現れるの。」
「そうかぁ。」
「昔の人が見た地獄が、今見た絵本にいろいろ描いてあったんだよ。」
「うん…。それで、地獄ってひとりでいくところなの?みんなで行くところなの?」(※心の声『おっと、いい質問だが、心配しているな。しかしどう答えたものか…。』)
「ひとりだけで行くかもわかんないし、みんなで行けるかもしれないな。」(※心の声:『困った…。考えろ。えーい思い切って…』)
「うん。」
「おじさんが考えるに、みんなで行ったら面白いのは天国よりも地獄かもしれないな。」
「なんで?」
「だって、天国の様子はお花が咲いていたり穏やかなことばかりで、ずっと長い間いるのなら退屈してしまいそうだもん。○○が地獄へ行くなら、痛いかもしれないけど、体を動かしながら一緒にいろいろな地獄を巡っていた方が、退屈しないで済みそうじゃない。」
そうすると、ニコッと笑って、そこらを飛び跳ねはじめましたとさ。
こちらがとても勉強になりましたorz。

*1:これらの地獄の記述の出典は元々は司馬遷の「史記」から来ているのだけれど、なかなかゼロからイメージを持たせるのは難しい。