上手くいかない時期

様々な要因から,ここ数か月上手くいかないことばかりが続く。
どうしてこうして次々と続くのかなと思う。
上手くいかないのは,体力と精神力がかなり削られるけど面白い。
自分の場合は,どういうわけか大体4年ごとにそういったことが重なる時期がめぐってくる。まるで,オリンピックのようなもの。
またゼロから,次の自分の引き出しのきっかけを持てるようになればいいのだろうと考える。
何もない削り取られたところから考えてまたやり直すほど,すがすがしいものはない。
そういう時期にこそ,視野が広がるし,物事の見方が多面的に深くなる気がする。

のんびりできることをやる

誕生日はもう少し先なのだけれど,おそらく予定があって忙しいので,前もって自分の考えをまとめておきたいと思う。
・『のんびり,できることを少しずつやる』ということ
これに尽きるのかな,と思う。
何故かみんな焦ってしまっていて,何かやるにしても非常に意図が短絡的すぎるように感じているので,必要な点では少し長い目を持ちたい。
基本的に,自分自身はせっかちで世話焼きな部分があるので良くないのではないかと思う。このままの姿勢を続けると,ものごとを捉える上での,複数の視点が持てなくなってしまうのではないか,という危惧もある。
ちょうど6年前に,「何かしたり,教えたりするうえで一番難しいのは,何ですか?」とある人に尋ねたときに,即答で「待つことです。」と言われたのが非常に印象に残っている。
その時は,その言葉を聴いて「わが意を得たり」と思ったのだが,果たして今どんなときでも心の片隅に冷静な目でその心境を持ち続けていられるのか,ということがわからない。
そのときは,「待つ」という言葉を"Wait and see carefully."という意味で解釈したのだが,もうそろそろ老子っぽく"無為自然"に,気持ちの上ではいかに何もしないで放っておきながらこなすのか,が課題なのかもしれない。
それにはのんびり,自分のできるだけのことをするのが一番。
これでちょうど,自分自身の場合は,トータルの全体の視点バランスがよくなるのかもしれない。

セナ20回忌

セナ20回忌ですが,もうそんなに経ってしまったのかと驚く。
ローランド・ラッツェンバーガーの事故やら,あのときのイモラはおかしな雰囲気だった。
タンブレロコーナーでクラッシュして,死亡は翌日の朝ご飯のときのFMラジオで知った。
その前年1993年に,「笑っていいとも」のスペシャルゲストとしてダウンタウンと絡んでいるところも,春休みのテレビを通して,生で見たので懐かしい。
1994年の第2戦TIサーキット英田(現岡山国際サーキット)では,僕自身はテレビ中継を見ていて,確か14時過ぎくらいに,ポールポジションからスタートしたのだが,2周目の右へ曲がる第1コーナーでスピンして,波打った砂の部分にコースアウトした。ベルガーとシューマッハがいいレースをした。
本当に断片的な記憶しかないけれど。
そういえば,大学院の授業で,セナの通訳をしていた先生に教わったこともあったっけ。佐藤琢磨スーパーアグリにいたころだったので,英語の授業でF1をネタにして話を振ってみたりした。
ただただ懐かしいですね。

中学生の時の作文発掘

WindowsXP内のパソコンのデータを整理していたら,中学生の時の作文が出てきた。
それまで紙で作文していたものを,ワープロでつくりはじめた最初の文章なのだけど,やはり紙で書いた文章ほどの深みはないのかもしれない。真っ向ストレートに投げ込んでくる文章。
今の自分自身の目から見ると,14歳の目から見て書いた文章だから,どうしても甘い部分がある気がする。
けれど,読み返してみると自分自身としては今も捨てきれない,透徹した視点や構成があるのではないかと思う。

  『いいなあ。』
                2年×組 ○○ ○○
 皆さんも記憶に新しいと思うが、ケイタイの番号が、11ケタになった。僕は父に頼まれ、近くのコンビニまでケイタイの変換をしに行った。ところで、我が家には、毛色が白と黒と茶のランディという犬がおり、そいつが散歩を欲していたので、一緒に行くことにした。
 無事に変換を終え、寒いのでさっさと帰ろうとし、つないでいた犬の紐をほどいていると、革ジャンの男に呼びとめられた。僕は、何もからまれるようなことはしていない。ここは無視して帰ったほうが無難だろう。と思い、その場を立ち去ろうとした。
 しかし、その革ジャンを着た男は、なおも近づいてくる。僕は、因縁でも付けられて、面倒なことになるかもしれない。と考え、一瞬身構えた。
 ところが、その男の用があるのは、僕ではなく、犬のようらしいのだ。
 正直ホッとした。
 男はいやになれなれしい態度をとる。犬も大分警戒していた。そしてついに、男はこちらの警戒にも気付かず、僕に話しかけてきた。
「この犬、名前なに?」
 はっきり言って、この質問には拍子抜けした。たしかに、一番基本的な質問ではあるが、男の外見と、どことなくのんびりとしたその声とのギャップが激しくて。僕は、
「この犬はランディというんですけど。」
と答えた。するとその男は、人目もはばからず、おもむろにしゃがんで、外見とは余りにミスマッチな声で、
「ランディ、いい子だね。」
と、なで始めたのだった。男の表情は、先程より心なしか緩んでいた。そして、ポツリポツリと語り始めたのだった。
「オレの犬はな、去年、死んだんだ。こんな感じの犬でな、ちょうどこの季節だったんだよ。オレの里は九州の長崎なんだがな。去年の暮れに帰ったんだが。オレの犬は腹に子供がいたんだ。ところが、体の調子が悪くなって、死んだんだ。オレが帰って、調子悪そうだったから気をつけていたんだがな、次の日にはもう死んでいたんだ。」
 頭が混乱していて、上手く話せないようだった。しかも、男は僕と話している間、しきりに、『いいなあ。』と言うのだ。まるで溜め息をつくように。


 話が一段落すると、彼は、
「よくブラシかけてるな。ここの耳のところは、毛玉ができやすいから、気をつけなよ。」
 と言って、また犬をなで始めた。そしてまた、ポツリと言った。
「今年は、実家に帰る気がしなくてなあ……。」
 彼が連発する、『いいなあ。』の意味が、少しくみ取れた気がした。


――その日は師走の最後の日。――
 彼はその後どうしたのだろうか。

後日談をブログに書いていたので。ある犬の死 - 蒐羅の門
10年後に書いているものも,あんまり内容は進歩してないねw。

未来予測

仕事で話をしに行った人と,意気投合して何故か未来予測の話になった。
歴史は,未来予測の参考や,ある背景をもった集団の思考の傾向を学ぶ上で役立つ訳なのだから,マクロな視点で見たときには細部のこまごましたことは重要ではない*1
その背景を把握したうえで初めて,個人にフォーカスしてミクロ的に捉えなおすと,さまざまな点が『質感』を伴って具体的に見えてくる。例えば,「地震で2万人が死にました。」というのではなく,「1人1人が生きていて,地震で亡くなった。それが2万件あった。」という捉え方である。
未来予測に関しては,詳細はここには書けない。
「おそらくこういう方向に向かう。けれど,それを具体的に対策や手段を考えて,イメージだけではなく,現実に落とし込める実力がある人がどれだけいるのだろう。」
「それにはこういう能力が必要かもしれないね。」
という話になって,珍しく60才位の人と意気投合してしまった。久々に2時間ぐらい,意味のあるおしゃべりができて面白かった。

*1:論証の積み重ねや裏取りという意味では,こまごましたことは重要である。念のため。