岡山人は怖い?

「岡山人はオックンも含め怖い人が多いねぇ…。」という先日のid:koguus氏のコメントを受けて。
このコメントが聞き捨てならぬという人は、このブログの読者にはかなり多いと思うので、僕なりにまとめてみる。
手元に全く資料がないので全てが僕の記憶に拠るため、間違い等あるはずなので、コメント欄で指摘してくださるとありがたいです。また、異論・感想等書いてくれると嬉しいです。

司馬遼太郎は、「歴史を紀行する」の中で、岡山は「桃太郎の末裔たちの国」と紹介していた。風土的にも温暖かつ水も豊富で、目立った災害も少なく、時代は下るが交通の要所でもあった(山陽道、瀬戸内海運)と。それは古代、大和に匹敵するほどの国、吉備があった(桃太郎は大和による吉備征討の話が脚色されたと見て、ほぼ間違いがないだろう。)事でも明らかであり、実際に桃太郎の家来としてついてきた人の子孫が犬養毅であり、日本神話に出てくる神功皇后の名前が「おきながたらしひめ」で、遠い子孫が吉備津神社の息長(おきなが)さんであったという話が紹介されていた。
そのほかにもいろいろ紹介されていたが、「怖い人が多い」ということに関してだけ関係ありそうな事例を列挙(自分で考えたことも含む)し、自分なりに考えてみる。しかし、岡山とは言っても、備前、備中、美作に分かれる上に、倉敷は江戸時代の天領岡山市とは今も仲が良くないことを考えると当てはまらない事も多い気がするが。因みに、僕は備前出身(岡山市)と言うことになる。
①風土から
岡山はドライな人が多いとよく言われる。
上に述べたように、風土的に恵まれていたがために、助け合いの精神が発達しにくかったというのである(県北はそうではないという気がするが)。かつて、「岡山人は日本のユダヤ人である。」と言った学者がいたらしいが、確かに拝金(いや、拝物か?)的な要素はあるのではなかろうか。換言すれば、拝金的とはゆかないまでも、極めて現実主義的な考え方(思考のパターン)を持っている人が多い気はする。簡単に言えば、ボランティアという概念が育ちにくい環境であるということか。
実際、僕は東京しか比較対象にないが、東京に来たとき、「都会の人なのに親切な人が多いなぁ。」と感じたものである。道案内などを頼むと非常によく分かると思う。
②方言から
岡山弁において、「ものすごい」意を表す単語は、他の方言に比べ圧倒的に多い。岩井志麻子さんによって一番有名になったものが「ぼっけえ」であるが、その他にも「でえれえ」、「もんげー」などが御三家であり、バリエーションも数知れずである。強調して伝えなければならない必要があったからこそ、強調に用いられる言葉は発展するはずである。これから推測されることは、「物事を少し大げさに伝えなければ人が動いてくれなかった」ということである。これは①にも関わりがあることだろうが、少々のことなら人に頼らずとも自分で解決つけれるはず、という共通認識がなされていた事実を示すのではなかろうか。これは、ドライさに通じる要素である。
また、一人称の多用も特徴である。男性なら「わしゃあ…」女性なら「うちは…」等、それに類する共通語が大体発言の頭に来る(少なくとも東京よりも率は高い)。「わしらー」、「うちらー」、「おめーらー」等の共同体を指す言葉も、実際掘り下げてみると、その縛りが考えているほど強固なものではない事に気付く。時と場合に因るから異論もあるかもしれないが、自分個人の意見を正当化するためにこれらの言葉を使う率も岡山の方が高かった気がする。
③歴史から
古代に大和文化圏と異なる吉備文化圏のあった事実も、無視できないが、比較的有名な岡山というイメージを与える歴史人物を見てみても、全国区でイメージのいい?人物はいないのかもしれない(勿論いるにはいるが)。
古くは吉備真備和気清麻呂児島高徳、等だが地域的に備前岡山という訳ではない、戦国時代以降に、特に中央で岡山県民性というものが次第にイメージとして確立されていったと考えると、すこし頷けるところもある。
一応、岡山にお墓がある日野富子は除いて考える。
まずは、岡山城を築いた宇喜多直家だ。、戦国大名になる過程で主人を毒殺等、権謀術数に長け、備前地域の制圧には合戦らしい合戦をほとんど行っていないつわものである。幼少時、自分が殺されることを防ぐために、馬鹿のふりをしていた等、信長に通じるような行いもしていたようだ。備前を制圧してからは、西は毛利氏、東は豊臣氏の勢力が拮抗し、難しい立場に立たされたが、結局有名な高松城水攻めに見られるように、豊臣方についた。この後、備前一の美人と称された正室のお福の方を色好みだった秀吉に差し出して、お福の方との間に生まれた子の宇喜多秀家の将来の安泰を、確実にしようとしたのは有名な話である。実際歴史は直家の死後、目論見どおりに運び、お福の方は秀吉の寵愛を受け何人か子供を設け、子の秀家は岡山城に金箔を貼ることを許され、更に五大老の一人にまでなった。結局最後には、関が原の戦いで西軍についた為に、秀家は八丈島に流されてしまうのだが。戦国大名のイメージ?の対極にいそうな戦国大名、それが宇喜多直家である。
関が原以後、岡山城に入ったのは、運命の皮肉か小早川秀秋。西軍を裏切った、第一のキーマンであるがため、関が原の東軍の他の武将から総スカンをくらったのは言うまでもない事実だが、地元民の印象も当然の話だが相当悪かったらしい。その後は姫路の池田氏岡山城に入った。
政治関連では、宇垣一成を挙げないわけにはゆかない。wikipediaよりの引用で申し訳ないが。

業績

宇垣は大正後期から昭和初期にかけて陸軍の中心人物の一人として存在した。彼は戦闘の場での指揮官や軍略家ではなく、政治に長けた軍政家と言える。その彼の業績のうち歴史の表舞台に表れた代表的な出来事を2点記載した。

宇垣軍縮について

加藤内閣において世論より軍縮の声が高まりを受け、陸軍省経理局長三井清一郎を委員長とする陸軍会計経理規定整理委員会を設けて宇垣軍縮を行った。

具体的には21個師団のうち高田の第十三・豊橋の第十五・岡山の第十七・久留米の第十八の計4師団を廃止、これに伴い連隊区司令部16ヶ所も廃止となった。また陸軍病院5ヶ所・陸軍幼年学校2校も撤廃した。
だが、実はこれにより浮いた金額を欧米に比べると旧式の装備であった陸軍の近代化に回したというのが実情である。主な近代化の内容として戦車連隊・高射砲連隊各1個、飛行連隊2個、台湾山砲連隊1個の新設、自動車学校・通信学校の開校、飛行機・戦車・軽機関銃・自動車牽引砲・野戦重砲の配備を行った。

組閣流産について

組閣大命の下る前、昭和7年(1932年)の満州事変・五・一五事件、翌昭和8年(1933年)の国際連盟脱退、昭和11年(1936年)には二・二六事件など、軍部による策謀や、日本の国際的孤立化、さらには陸軍皇道派などによるテロ事件の発生などによって政情が不安定化していた。そして、それをきっかけとして軍部の政治への干渉が著しくなり、危険な戦争への突入が懸念された。

そこで、陸軍大臣であったときに内閣の方針によく協力し、軍縮に成功した宇垣の手腕を高く評価していた元老・西園寺公望などに所望され、軍部に抑えが利く人物として、宇垣が昭和12年(1937年)1月、総理大臣に推挙された。
しかし、石原莞爾大佐などの陸軍中堅層は、軍部主導で政治を行うことを目論んでいた。宇垣の組閣が成れば軍部に対しての強力な抑止力となることは明白であったので、彼らは宇垣の組閣を阻止すべく動いた。軍部大臣現役武官制に目をつけた石原は自身の属する参謀本部を中心に陸軍首脳部を突き上げ、陸軍大臣のポストに誰も就かないよう工作した。かつては宇垣に近しい存在であった、寺内寿一・杉山元の両大将や部下の小磯国昭朝鮮軍司令官にも工作は成功し、陸軍大臣のポストは宙に浮き組閣は断念された。

その後、日本はこの年の7月7日に起きた盧溝橋事件を皮切りに日中戦争へ突入することになった。 近衛文麿首相は事変初期段階での収拾に失敗し(「爾後国民政府ヲ対手トセズ」)、戦火の拡大が懸念された。宇垣は近衛首相に請われて和平実現のために改造内閣昭和13年5月)に外務大臣として入閣、中国との戦争を短期に終結させるべく秘密裏に中国国民政府要人・孔祥煕(行政院長)との交渉を取り付けた。しかしこれも陸軍首脳らの画策により、対中外交を外務省から切り離す「興亜院」の設置が行われて(しかも近衛首相はそれに賛成した)交渉を阻止され、梯子を外された形となり大臣辞任の引き金となった。

人物評

上記ように宇垣は優れた政治的手腕と極めて現実的な思考を持っており、当時の日本の置かれていた国際情勢を理解して無謀な戦争を行うことの愚かさを知っていた軍人の一人であった。しかし、陸軍の実力者であった彼をしても結局は時流に逆らえず、日本は敗戦への道をひた走っていったのである。
一方で、その実力ゆえに野心家と目され、警戒感を持つ向きがあったことも事実であった。また、「聞き置く」など曖昧な表現を相手によっては多用し、それが張鼓峯事件を引き起こしたと言われ、昭和天皇からは「この様な人を総理大臣にしてはならないと思ふ」(「昭和天皇独白録」より)と酷評されていたことが知られている。

自他ともに認める首相候補であったが、候補のままで他界したことから「政界の惑星」と呼ばれるようになった。

人物評でのイメージが、中央での岡山出身者への警戒イメージへと変わったのは容易に想像できるし、それが事実であったとも司馬氏は書いている。犬養毅とは対照的なイメージの持たれ方で、面白いとも。
勿論他にも様々なイメージを与える岡山に所縁の深い人物がいるし、この三人が良い悪いという問題でもないが、全く影響がないと断言できないのも、また事実なので…。
④小説から
内田百間百鬼園)とかはいいとしても、、。
何故か有名どころの小説は怖いものが多い(気がする)。
横溝正史八つ墓村」、岩井志麻子ぼっけえ、きょうてえ」とか。あと、全然関係ないけど「白い巨塔」の財前教授の故郷も岡山でしたね…。

疲れたので、これくらいにしときます。

歴史を紀行する (文春文庫)

歴史を紀行する (文春文庫)