関東の雨は主に平野に降る

今日の雨は涙雨。葬儀のために関東までゆけるはずもなく,気持ちの持って行きようがない気がして,少し長くなるが,ある先生の追悼文を書かせていただく。

先生が亡くなった,と聞いたのは,21日の昼だった。かなりのお年だったのだが,不思議と気が合った方でした。
友人からの知らせを自宅で見たとき,地方から上京してからの10年間が走馬灯のようによみがえってきたけれど,僕が今こうして仕事ができて,文章を書けているのは,先生のおかげだと思っている。

先生にバイオリンを習いに行きはじめたのは,オーケストラに入ってからしばらくしてからである。
当時は自己流が抜けきれず,初歩的なカイザーすらも満足に弾けなかった。地方から上京し一人暮らしを始めたばかりで,このままオーケストラでやってゆけるのか,本当に不安感しかなかった。
そうした不完全な状態のときに,上手く声を掛けてくれたのが先生でした。
弾けないなりに,工夫と観察を重ねて,3回目のレッスンに行ったときのこと,今日も上手く結果が出なかったと思って,しょんぼり帰ろうとしたときに,
「〇くん,その取り組み方は,一流のプロでもなかなかできない。もしもその取り組みを続けたら,数年後きっと君のイメージを音に乗せて伝えられるようになる。それは,いままでの君の取り組み方の財産だし,これからどの道に進んだとしても,君の大きな財産になるから,少しずつやってゆこう。」
と言ってくれた。そのときの本当にボロボロのレッスンの中で一体どこを見ていたのか,今となってもわからない。けれど,何故か見抜いてそうした言葉を上手くかけてくれていた。その言葉がなかったら,自分は途中でくじけて,つぶれていたかもしれない。
*1

そこから一歩一歩,本当に不器用で回り道も多かったのだけれど,耳を鍛えたり,技術中心の基礎が4年間続いた。お金を切り詰めて,練習は基礎錬中心に人の倍おこなって,毎週レッスンに行くようにしていた。
3年生になるころにはオーケストラにも何とかついてゆけるようになった。同時に理系で忙しくなって,金曜日の21時からの最後のレッスンと決めていた。
その日最後のレッスンが終わると,先生は決まって「コーヒーでも飲んでゆくかい」と声をかけてくる。コーヒーを飲みながら30分くらいお話をするのが,自分にとって非常に大きな糧となった。
世間話のほかに,音律の話,ミルシテイン,カザルス,カラヤンといった音楽家の直接のお話,バイオリンの楽器自体や調整の技術,奏法の差異,弓の技術,レコードなどの音源をかけてどこが課題なのかの洗い出し,そして指揮法について,リズムのとらえかたや身体操法について,本当に実地で教えてもらった。
本当に楽しかった。長いときは23時過ぎまで,一対一で飽きずにやったものだった。
楽譜や音源,曲に関連するイメージのための資料を貸していただいて,研究したこともあった。
大学院に行って,レッスンを2週間に1度のペースに落としても,それは続いていた。いつしか,レッスンの技術論での指示は,意識の持って行き方や集中力のコントロールなど,禅問答のようになっていた。このころになると技術以上に,頭の音のイメージ,解釈を褒められることが少しずつ多くなっていった。

それと同時に,教えるのに向いているという適性を発見してもらえたのも大きかった。
あるとき,「君は人にものを教えるのに,とても向いていると思うよ。観察眼とその先のイメージ力がすばらしい。ただ,ちょっとナーバスでせっかちになるときもあるから,『待つ』ことを大切になさい。」と言われた。
結局,それが今の職業につながっている。そして,何となくその経験の中から,「危なっかしくて」その当時の自分そっくりな人間を見ると,そのまま放っておけないのだと思う。

この10年のうちには,途中でいくつか大きなピンチもあったのだが,それを脱した折には,僕の話を聞いてから,
「話を聞いていると,君は本当に運がいい。周りに助けてもらっている分,きちんとあなたは自分のできることをしたらいいよ。」
と声を掛けてくれた。酸素マスクつけての指揮の後,病院のベッドで最後に話をしたときも,最後はその話だった。

そういう生き方を,自分はこれからもきっと続けるのだろう。
ありがとう。さようなら。

*1:後に,当時の様子を伺うと,「何となく危うさがあって,何かいいものがあると思った」と言ってくれたが,果たしてどうだっただろうか。