最近流行の「国際化」という言葉の表層性

最近ふと思うのだが,どうしてこうコロコロと表層的に言うことを変える人がいるのだろう。
自分で声を発していて,そして意見などを発信していて,表層的にものを言ったところで,恥ずかしくないのだろうか。
営利的なことだから仕方ないというにせよ,ボディーランゲージが思っていることと違うと明らかに言っているのに,表層的なことを言われてもこっちは興ざめするのみである。
今年の流行はこれ。「国際的な視点が必要です」「グローバル化が進んでいますから英語が必要です」という言葉。具体的にどうだ,と自信を持って発言することができる人はほとんどいないのではなかろうか。こんな言葉に振り回される大学生が可哀想だ。この言葉を自分から発している人で「少なくとも私はこう考えるのだけれど」と言える人には,申し訳ないけれど,正直あまりお目にかからない。
「国際化がこれから進みますから,英語が自分の表現ツールとして重要です」という事実に僕自身は全く異論がないが,「英語が必要です」と表層的な視点でしか喋れていない人間に言われても,「あなたは,英語で伝える必要があるものを何か持っているのか?」と聞き返したくなる。
「私はアイルトン・セナの日本語の通訳をしていました」という自己紹介をした外国人の先生に,大学で英語を教わったことがあるが,「ではあなたは,セナのドライビングスタイルのどこがすばらしいと思いますか?どのレースが印象に残っていますか?」と訊いたら言葉に詰まる。そんなに外れた質問ではないし,「自分からそう自己紹介して,言ったんだろう」と思った。僕の英語がレベルとして拙い英語であったとしても,そういうところできちんと正対して答えてくれる先生がいれば,と思った。あの先生は僕が「黒沢明の映画の撮り方について考えるところ」を話しても無視していたし,その程度のものだったのだろう。準備していっても暖簾に腕押しが続いて,何だかばかばかしくなって授業に行かなくなってしまった。
その逆かなと感じる体験もあった,中国から留学で来ていた人に,「蘭亭序」展を見に行くという話をしたら,「でもあれは太宗の墓の中にあるんじゃないのか。」と言うので,「たしかにそうだが北京の故宮にもあるように写しがあって,日本でもそれが手本として用いられて,日本の書家に影響を与えているんだ。見に行かないか。」と言って,上野まで一緒に見に行ったことがある。アメリカに行くというので,別れる際,王維の絶句を唱えたら驚かれた。あとでメールが来て,是非連絡先を教えて欲しいと言われたっけ。そのときなんか,僕の英語も大したことはないのはわかっていて,お互いにブロークンな英語でしゃべっているのに,楽しかったし,さすがだなあと感心した記憶がある。
もう僕が言っても手遅れなので,表層的なことをやるんなら,徹底的に表層的なことをやればいいんじゃないでしょうか?
僕自身はそうしたことにあまり価値を感じないし,逆に外国語をしゃべることで,外国人に対してもメッキがはがれやすくなるから,わかりやすくなっていいんじゃないのかなと思う。