毎年恒例の遺書執筆

20歳を過ぎてから毎年遺書を書いている。
今年もまた、新たに書いている。
「おまえはばかじゃないか」と言われても書いておく。
思考を整理する上では役立つから、というのも一理あるが、自分の価値観を書き留めておくため、というのが一番の目的としてある。自分の何が必要なことで、何が不要なことなのか、おまけでくっついてきているものは何なのか自分の中ではっきりさせておくのだ。それがあると、追い込まれたときに強いし、退路がはっきりと見えてくる。自分の一存で決断を下さねばならないときに迷いを断つことができる。
いざという時の勘が冴えるとでも言うのだろうか。自分で行動を起こす際の根源となるのは、自分の価値観をどれだけ盲目的に信じることができるかである。そのためには、自分を冷静な目で分析し、こいつならどう動くか、どのような価値観で物事を眺めているかを把握し、その上で状況に応じてその分析を基にして、不完全ながらも次の手を予測できなければならない。大体において、自分を見つめる際にはその視点がどうしても甘くなる。そこをどれくらい厳しく分析するかが重要なのではないだろうか。
そうすると変な余裕が出てくるのである。
交渉事や状況が逼迫している時に、自分が一番意識をするのは「無私ならばどういう決断を下すか」「大局的にどうか」ということである。そのとき、自分の存在を消さなければならない時に、価値観の根源と線引きの境界が分かっているというのは、下す決断を後押しする事ができて心強い。
理論は後付けで、ほとんどの決断は勘、というのは、ある意味で非常に正しいと個人的には思っている。不確定要素がありすぎる中での決断なんて、勘以外の何者でも判断はできないだろう。
そのための遺書。