年が経つのは早いもの

さてさて、ちょうど先々週、誕生日を迎えてしまった。
ほぼ毎年誕生日を迎える度に、そのときの心境を書いているのだが、どうも違和感があるな、と思う。
自分の持っている感覚と違って、余りに早く自分の周りの時間が経過してしまっている。
何となく、自分の中では中学生位の感覚でずっときてしまった印象なのだ。
高校の時から、大学を経ても、社会に出て大人の自覚を持てと言われても、何となくピンと来ない。自分の納得が得られる形まで達し得ない。
そのヒントはどこにあるのか、人に聞いたり、目で盗んだりしてみたけれど、その8割方はまがい物だった。まがい物といっても、間違った事は言っていないのだ。ただ実体としては、変に自覚とか、心構えを明文化しているにすぎなくて、それを人に言われたり、文章で読んだりしたとしても、その人自身が自分自身で十分に咀嚼せずに語っていて、偉そうな顔をされたりするのは嫌気がさす。そういった種類のものが満ち満ちているのがばかばかしくなった。
一番失望したのが大学院である人が話をしゃべっているのをエレベーターで聴いたとき。自分は心底失望したし、限界を感じてしまった。その人が友達に語ることを想像して寒気がした。その人は価値判断の基準を他人や組織に依存して、自分で確立しようとしていないのがはっきりとわかったのだ。
その時から、僕は組織にいたままでいいのかどうか、随分反芻して考えた。その中で、出した結論は、自分のものさしで判断していたつもりだったが、その徹底が不十分だったという反面教師的な結論だった。
また、時期は変わるが、とある結婚式の二次会で写真を持ってきている人間がいた。「見て見て、かわいいでしょう」と言って、見せるのは本人の子供の時の写真。大体結婚式の二次会なのにデジカメにそんな写真データを入れて見せるなんて、よほど今の自分に自信がないのか、はたまた表面的に過ぎない容姿に自信がないのか、その心が見ていて痛々しかった。「ああ、かわいかったね」と言ってあげたい気持ちを必死でこらえて、適当にいなしてしまった。
ものさしの基準は「今の自分」でしょう。
一貫して持ち続けていたその姿勢が、様々な要因でぐらつきかけていた。もう一度違った角度から見返そう、環境を変えて、身分も保証も変えて、それでも自分に残るものって何だろうと思って、別の場所にやってきた。
結果、いろいろな人に会う機会を得た。
何故か知らないけれど、見る目が養われてしまって、ある程度表情に出ている様子で判断してしまうようになってしまった。しゃべっている時の口元の筋肉の具合や視線の様子で違和感を感じるときは、男友達であろうと女友達であろうとある程度聞き流す部分を頭の中で作ってしまう。ある程度はいいのだけど、いい加減繰り返されると腹が立つ時がある。
そこをウィットで打開すれば許される余地が生まれるのに、なんでそういう打開策をイゴイゴするだけで打ち出せないんだろうと思う。そういうときには助け舟を出すとか、いろいろと考える。
逆に違和感を感じない場合は、非常に話が弾んで面白い。そこまで考えてない、考えなくても天然で出来る人も存在するけれど、そういう人は極めて稀だと思う。
みんなそういった自分の感覚と相違があったとしても、折り合いをつけてゆくのだろうな、とふと周りを見ていて思う。そういう意味ではみんなリッパな大人になっているのだろう。
本質的な部分で自分自身そういった器用なことはできない。逆に他人のそういったことに変に気付いてしまうのは、ある意味不幸なことなのかもしれない。相手が話でついている嘘を、敢えて知らないふりをしてあげようとしても、自分の顔に出てしまうし、なかなか話をするのは難しい。
はっきりズバッと言ってしまった方が早いのだが、ズバッと言いすぎて、大学では相当痛い目にあっているので、一呼吸置くしかない。そうすると「ここだ」という機会・タイミングを逸してしまう。
間違いなく一番楽なのは、愚鈍なふりをして「あ〜そうですか。」と流すことだけれど、そのさじ加減がまだわからないな。
少し前に、ご飯を食べながら、
「そんなことはっきり言ったりしたら友達なくすよ。」
とある人に言われたが、別にそんなことでいなくなる友達なら、さっさといなくなってもらって結構だしな。
誕生日迎えても相変わらずのままです。はい。
年に一度の言いたい放題、終了!