初恋のきた道

DVD借りて久々に見ました。

初恋のきた道 [DVD]

初恋のきた道 [DVD]

初めて見たのは、浪人の決まった日だったと思う。兄の高知のアパートで一緒に見た。
チャン・イーモウ監督作品は「紅いコーリャン」とか大学時代に見た記憶があるが、やはり色使いのセンスが素晴らしい監督だと思う。現代の映像が白黒であるが、思い出の核心部になるとフルカラーで明確に描くというあたりの切り替えのセンスがいい。記憶の場面の演出を考えた際に、トーンを変えたり、モノクロにするという発想はだれでも湧くのだが、この映画のように現代がモノクロで、思い出がフルカラーという逆転の演出は思いつかない。それも現代の季節を冬に設定して、雪道だからモノクロでもさほど違和感がないのだ。その計算がすごい。
あと、赤の印象の付け方がさすが。チャン・ツィイーの存在感を生かし切っている。
あと、タイトルがいいですな。これは配給会社の腕だと思うが。
もともとの中国語のタイトルは、「我的父親母親」*1なのだ。直訳で「わたしの父母」位か。
英語タイトルの"The road home"も悪くはないが、一番しっくりきたし、なるほどと思えたのは、日本語タイトルの「初恋のきた道」である。

父が死んだ。時代から取り残されたような村で子供相手に40年以上に亘って教鞭を執り、古くなった校舎改築の資金繰りのために吹雪くなかを歩き回っているうちに倒れたのだ。誰も気づかなかったが父は心臓病を患っており、発見されたときには手の施しようもなく、そのまま病院で亡くなったという。
 父の弔いのため数年振りに故郷を訪れた私(スン・ホンレイ)は、母(チャオ・ユエリン)が父の遺骸を担いで村まで運ぶことに固執していると聞かされて驚いた。町から村までは相当の距離があり、いまや子供と年寄りしかいないこの村の人手では大変な話だった。母は隣村から人手を雇ってでも、トラクターではなく自分たちの手で父を我が家に連れて帰りたい、という。母がそこまでこだわる理由も、解らないではなかった――
 若き日の父――ルオ・チャンユー(チョン・ハオ)はこの村の人間ではなかった。町で学問を修めたあと、村の募集に応じて初めての教師としてやって来た人間だった。村人と共に彼を迎えた若き日の母チャオ・デイ(チャン・ツィイー)は、そんな父に一目惚れをしたらしい。村では新しい建物を建てるとき、その村でいちばん美しい娘が織った布を梁に巻く風習があり、このときその役割は母にあてがわれた。母は心をこめて織ったという。
 少しでも父のそばにいたかった母は涙ぐましい努力をした。学校作りのために駆り出された村人の食事は、村の女たちが持ち寄る決まりになっており、常に人よりあとに皿を取る父の手に自分の料理が渡るよう、いちばん後ろに自分の食器を置いた。学校が出来たあとは、父が子供達に向かって朗読する声を聴くために、毎日そのそばを歩いた。遠くに住む子供を送ることがあると聞くと、その道筋から遠くない場所に佇んで彼の姿を見届けた。新たに掘られた新しい井戸ではなく、学校が見える高台にある古い井戸で水を汲むようにした。
 そんな切実な想いはやがて父にも届いた。ひとり暮らしの父のために、村人は持ち回りで彼を家に招き食事を提供することになっている。はじめて父が食事のために母の家を訪ねたとき、戸口で迎える母の姿が、父には一幅の絵のように見えたという。
 だが、想いが通じたという喜びも長くは続かなかった。町では時代の変化が怒濤のように押し寄せており、母たちには与り知らぬ理由で父は町に連れ戻されてしまったのだ……

このあらすじからみると、英語タイトルの"The road home"は妥当だと思う。お棺を運ぶ家への道と、恋の成就の道*2の二つの意味で解釈できるからだ。ただこれでは、お棺を運ぶ家への道の印象が勝ってしまう可能性が高い。
日本語タイトルの「初恋のきた道」は、特に思い出部分のチャン・ツィイーに焦点を当てるという意味で、マーケティング的に、そして作品イメージ的にも的確にとらえていて素晴らしい。それと、「道」を残しているので、英語タイトルで述べた、二つの意味に通じた解釈も可能である。
そこが、この映画の(副次的に)凄いところである、と改めて感じたのでありました。

*1:簡体字表示できないので

*2:これもシナリオ上「家への道」なのだ。あらすじ参照。