引退を前にして

結局、何もできなかった。
それが、一番正しい。

目的なら始めた時点で自己完結しているし、これといって新しい事に取り組めもしなかった。逆に幅を狭めてしまったかもしれない。
それが結果として何を生んだのか、はっきり言ってまだわからない。そこまで達していないだけなのかもしれないけれど、途中で失ってしまったものが多すぎた。
人とは違った方法論をわざと模索した(模索せざるを得ない状況に追われた)のも、それを基に構築しようとしたものも、結果が全く得られていない。むしろずっと否定され続けてきた。
否定され続けるうちに、声すらも出なくなった。
「でも途中で他の色々な事を得たでしょう。」と人は言うかもしれない。それはある意味正しいが、その視点からは一種の「哀れみ」だとか「蔑み」が感じられて、余計惨めな気持ちになるばかりだ。

難しい事は簡単に、簡単な事は面白く、面白い事は深く

まだ、第一段階は出来ていない。
第二段階は否定された。
第三段階も…。
何処へ行くんだろう?

ひとぴとを喜ばすのは善いことである
自分をよろこばすのは更に善いことである
ひとびとをよろこばすことは
或は出来るかも知れぬ
自分をよろこばすことは大切であるが容易でない
物といふあらゆる物の正しさ
みなその位置を正しく占めてゐる秋の一日
すつきりと冴えた此の手よ
痩せほそつた指指よ 
こんなことを自分はひとり考へてゐる
なんといふさみしい自分の陰影であらう
山村暮鳥