最近

自分は果たして何者なのか、ということが不明。
かなりの変わり者(変人ではなく奇人を目指すか…)なのは認めるが、自分でも御し切れていないところがある。最近前に比べて少し丸くなったと思っていたら、また知らず知らず再燃しかけていることに今日気付いた。

この年になって気付いたことだが、「変わった人」=「排斥される存在」という図式は必ずしも成立しない。
よく言われているように、これまで日本的ムラ社会に於いては成立していたとされるこの等式も、現在確かに存在はしているものの、表層的には大分薄らいでいるようである。ただ、これはあくまで表層的なもので、今のアメリカ社会、日本社会を見る限りは、自由の名の下に、一部ではこの図式がより深化してしまっているとも言える。
また、現在ほど異端児がもてはやされて、社会的地位を得ている時代はない、と多くの人は考えているかもしれない。しかしながら、日本のムラ社会が戦後の第二次農地改革で崩壊したと仮定するとしても、実際は奇人、変人やアウトサイダーは存在し続けてきたのであり、それなりの社会的評価を得てきたはずである。彼らの存在を現在語る人が少ない、資料が少ない、ただそれだけの問題であって。
江戸、明治にかけて出た瓦版的な「○○番付」が、「奇人変人番付」や「馬鹿番付」などを数多く送り出しているのも、三面記事や週刊誌的な要素はあるにせよ、庶民がそれをそういうものとして受け入れていた、ということは少なくとも言えるだろう。もっと近くでは、バンカラというのもそれにあたるのかもしれない。
こう考えてみると、ムラ社会であるはずの時代でも、きちんとその存在は認められ得る社会だったのではないか。逆に、昔に比べてライフスタイルの画一化が進んで、異端児と呼ばれる人が「よし」とされるような現在のほうが、逆にその生存圏や行動圏が狭まっているのではないか、と思えてくる。
以上、たわごとでした。