中学生にとっての宮澤賢治

9年前にも,宮澤賢治については自分の印象を短く書いている。
http://d.hatena.ne.jp/kimi-ok/20050419/1113926591
宮澤賢治作品が好きな中学生と話す機会があり,そこで1時間ばかりえらく盛り上がってしまった。
どこまで読んだのか聞いてみると,まだ童話のみで「春と修羅」は読んでいないという。
銀河鉄道の夜」に関して,内部の世界観の表現が好きだ,と言っていた。僕が銀河鉄道の第一稿,第二稿の修正部分の内容に銀河鉄道に賢治が込めたかったメッセージがあるのでは,という話を出したら,確かに,という話になった。こんな話ができる人に会うとは思っていなかったので,久々に感動した。
その日の夜,深夜にもう一度全部読み返してみた。
9年前の自分の書いた賢治の印象は,あまり変わっていないのだろうと思う。
その中で,「銀河鉄道の夜」を読む中では避けて通ることのできない賢治の死生観について,もう一度考え直してしまった。
賢治は「狼森・笊森・盗森」にあるような土俗アミニズム的な感覚,「グスコーブドリの伝記(原作の「ペンネンネン・ネネムの伝記」)」に見られる法華経の「衆生済度」「自己犠牲」の思想をもっていた,そして「銀河鉄道の夜」に見られるキリスト教の影響も見て取れる,
これらの作品の中で,私が賢治の死生観についてもっとも本質でわかりやすく説明できる作品は,「よだかの星」であると考える。
なぜなら,上に書いたようなさまざまな宗教観を結びつける概念は何かを考えたとき,頭の中で「命=元素(デモクリトスの元素)」という概念で包括できる印象を受けたからである。
よだかの星」の最後,よだかの命が尽きるときの文章に,こういう一節がある。

もうよだかは落ちているのか、のぼっているのか、さかさになっているのか、上を向いているのかも、わかりませんでした。ただこころもちはやすらかに、その血のついた大きなくちばしは、横にまがっては居ましたが、たしかに少しわらって居りました。
 それからしばらくたってよだかははっきりまなこをひらきました。そして自分のからだがいま燐(りん)の火のような青い美しい光になって、しずかに燃えているのを見ました。
 すぐとなりは、カシオピア座でした。天の川の青じろいひかりが、すぐうしろになっていました。
 そしてよだかの星は燃えつづけました。いつまでもいつまでも燃えつづけました。
 今でもまだ燃えています。

さて,ここで提示した視点で「銀河鉄道の夜」,「永訣の朝」などまで読み返してみると,「命=元素(デモクリトスの元素)」という概念で読み解くのが妥当なのではないか,と考えられるのですが,皆様の印象はいかがでしょうか。