早いもので

もう年末である。12月に入ってからというもの、あまりにしょうもないことばかりに時間を費やしているような気がして、体は疲れているはずなのに、深夜になって白い天井を眺めながら考え込む機会が増えた。
考え込むといっても、そこまで深刻なことを鬱々と考える、といった訳ではない。

イメージの旅を楽しむ、という表現が適切なのだろうか?自分が最近見たこと、聞いたこと、人との関わりなどの様々な断片をシャッフルしてさらに抽出し、その要素だけをああだこうだと繋ぎ合わせてゆく作業である。繋ぎ合わせは汽車の走る先に無限に線路を継ぎ足してゆくようなもので、方向性も、その展開も、特に統一性といったものはない。昔から行っている、寝る前の儀式のようなものである。
あくまで自分の場合ではあるが、断片からの抽出の段階で、色彩感といったものは、ほとんど失われてしまう気がする。あるとすれば、透明感のある風に色彩が感じ取れるか取れないか位、ちょうど2月中旬の空気感に似たものだろう。イメージは硬質なものが多く、質感としてもそこまで有機的なものは湧かない。抽出の段階を経て削ぎ落とされてくると、だいたい最終的なイメージとしてそのようなものとして純化される。
そこから、それらを組み合わせる作業が始まる。組合せの発想はそこまで昔から変化している訳ではない。大きさ・重さの変化は自由で、繋ぎ方も、先程線路に例えたのが良かったのかわからないが当然飛躍もある。そして時々、予想しないとんでもない発想とか種が出てきてギョッとする。でも、そこで止めたりしないのが僕なりのルールだ。試行をとにかくやり続けてみる。(後でその発想が何故出たのか思い返す過程で、「これが原因か」と納得する答えに辿り着くことが多いから)
この作業の翌日、朝起きてから、かなり自分の発想?が整理されていることに気付く。思考にしても、身体動作にしても、何となく結論が出ている状態といおうか。そのイメージに沿って、取り組むテーマや状況は違えど、そのイメージの過程・結論を忠実に再現してみると、大体はその状況を打開する手立てが見つかるものなのだ。
最近はそこまで本を読めていないこともあるのか、基となるイメージの広がりが貧弱で困る。中学高校では、テスト後に一万円くらい、大学に入ってからは月に5000円位は古本や本を買い続けているが、予算には限りがあるためここ数ヶ月は就活実用本が主になっているせいなのかもしれない*1。これでは広がりがなくなってダメだ、と思って、少し前にピカソの新美術館の展覧会に行ったりして、何とか解決しようとしたのだが、感性が衰えたのか取材が不十分だったのか、いつもなら見出せているはずの、展覧会で何を感じたかの結論めいたものが自分の中からイマイチ湧き上がってこないのだ。
イメージの材料がなくなるのが正直一番怖い。それを純化し構成していく作業は好きだからいいのだが、その材料集めの感性の鈍りまで今まで考えが及んでいなかった。ここ1年ほど少し違和感を覚えていた理由が、そこにあるのではないか、と思えてきた。これまでその作業の前提を意識できていなかったのは、致命的なのじゃないかと思う。自分としては、そこまで感覚的な人間ではないつもりでいたが、イメージを作って行く作業の一番最初の段階でどう物事を拾ってくるかは、振り返ってみれば確かに、多分に感覚的なものが作用していたのだ!
さあ、この解決法、あるのかな。ということを期待しつつ、今日も天井を眺めながら考えてみようか。

*1:雑誌は10分位・新書はしょうもないものなら15分くらいで読めるので立ち読み、How to本も立ち読み(焼き直しがなんて多いんだろう)買うものといえば、新書で15分で読みきれないと感じたものと、視点が斬新なもの、自分が不勉強な分野の入門書として使えそうなもの、あとは古典位か。大概の漫画は10分位で読めてしまうので、時間対費用効果が薄い気がして、部室でパッと眺める位しか出来ていない。