ある犬の死

久々の3連休の最終日。
特に何の変哲も無い休日。
15時頃、兄から電話が入った。
実家の犬が、亡くなったらしい。
電話を切ってから、年甲斐もなく一人泣いてしまった。
3日前まで元気で散歩もしていたが、昨日から急激に餌を食べなくなっていたらしい。とはいっても、水は今日まで飲んでいたらしいし、死ぬ直前まで何とか自分で歩いていたらしい。
昨日から少し弱っていて、布団にまるで人形のようにおとなしく寝ていたらしい。今日になっても、体がしんどそうであったけれど、お昼には犬小屋からベランダのウッドデッキまで歩いてそこで日向ぼっこをしていたらしい。そこで一度痙攣が起きたらしいが、回復してそこから庭の芝生に下ろしてやると、そのまま立って自力で物干しの場に移動していたようだ。
14時15分ごろ、母が帰ってきて、物干し場に横向きに倒れている犬を発見し、その様子が眠るようでおかしいと思って近づき、どうしたと声を掛けてなでてやると、最後はワンと一声鳴いて、そのまま心拍が消えていってしまったそうだ。温かさが遠のいて瞳孔が散大していくのを、最後は兄が確認したらしい。
最近は弱ってしまって、かなり毛が抜けてしまっていたが、他に特に問題となる症状はなかったと思う。
元々は、僕が飼い始めた犬だった。
小6の時、初めて自分で山陽新聞に広告を出して、「シェットランドの子犬格安で譲ってください。」と書いたのが始まりだった。その後、問い合わせが何件かあったけど、結局、ある日、吉備津神社の駐車場で生後50日程度でもらわれてきた。まだ、ハムスターくらいの大きさで、お腹を少しこわしていて、もしかしたらこのまま死んでしまうかもしれないと言われていた。ダンボールで部屋を作ってやって、少しずつふやかした餌をスプーンで鼻先に近づけてやったらやっと食べた。その晩、隣でバイオリンの音を出していたら、その音に合わせて初めて遠吠え?をした。その思ったよりも大きな声を聴いた時、何故か、「もう大丈夫だ」、と妙に安心したのを覚えている。
ちょうど卒業式・春休みとなり、縁側から玄関、少しずつ庭に連れ出したりし始め、4〜5ヶ月位から散歩に連れ出した。それから毎日、夕食後には散歩に行った。本当に毎日。
雨の日も、少しだけは連れ出したし、骨折した日でも、大晦日・正月、入試の時も休まなかった。結局、中学・高校・大学に入学するまでずっと続けた。
散歩の途中で激しく雪が降り出して全身真っ白になったり、夕立でずぶ濡れになったり、晩秋のすくもの煙に燻されたり、鼻先で路上の一万円を見つけてくれたり、桜の季節には後楽園の方にコースを変更したり、あとたまに大回りして百輭川まで出たこともあった。街中の茂みで本物の松虫を発見したし、三味線屋の猫との格闘もあった。
毎日ほぼ定刻に、空の傾く太陽や少しずつ移り変わってゆく月・星の様子を見たり、周りの漠然とした季節の空気を感じたりすることも、今考えてみれば貴重な事だった気がする。
自分が散歩という形を借りて外に出なければ、もしかしたら気が付かないで通り過ぎてしまっていたかもしれない、あの時の周囲の様子とかあの時の自分の心持ちというものが、今でもふとした瞬間に蘇ってくることがある。別にその時々にファインダーを覗いてシャッターを押したわけではないのだけれど、そのときの空気感の写真に思いがけずふっと入り込んでしまう感覚とでも言おうか。
その中に、右手のリードの感覚というものが、いつも確かにあった。