2つの結婚式

いいもんだなぁと思って,参加させてもらいました。
本当に色々な世界を見せてもらえた気がする。
それぞれいい顔をしていたし,ああいう雰囲気を大切にし続けて欲しいと思った。
そして晴れ舞台の中に,それぞれの人の価値観であるとか,方向性であるとかが如実に反映されていた。
参加している人々のなかで,本当に遅くまで,銀座や横浜で本当にさまざまな話をさせてもらったけれど,僕自身が本気で反省するとしたら,やはり質問能力・国際経験が足りない・衰えを見せてしまっているところだ。
2年半ぶりのN君との話で,それを実感してしまった。ドイツにいるというのがここまで考え方の背景に影響するのかと思った。日本語に直すのが面倒そうだったので,研究内容は英語で説明してもらって,話している内容としてはよくわかるのだけれど,僕の方から適切な質問ができなくなっていた。日本語を英語に直すのに時間がかかっている感じで,あまり本質的な質問ができなくて本当に申し訳なかった。
物理的に国外に出ていない,とか言葉がどうこういうのではなくて,質問をポンポンと発信する習慣が失われてしまった気がするのだ。耳学問ができるようにと思ってずっと大学・院時代はやってきたはずなのに,社会人になってその習慣が少し衰えを見せている気がしているのだ。
「このままでは大変だ」というのは,自分自身の個人的な部分とは別にして思う。
少なくとも,自分自身は,周囲に何かしらの影響を与えてしまっている。基本的に「教育」は自分自身の教育を受けた環境の再教育しかできないから,余計に危機感を募らせてしまっている。
最近,「僕はこの件についてはこう思うけれど,君はどう思うか?こういう視点で見てみたらどうか?」という言い方を後輩にはして,何かしら待って意見を聞こうとしているのだが,「私はこう思う。こういう視点でとらえようとしている。」という言葉が悲しいかな,なかなか返ってこないのだ。大体において,その言葉を流してしまって曖昧にしてしまう。別に僕の意見は絶対ではないし,正解はないから,外れていてもいいのだ。その地点での異なる立場からの知見であるとこちらも認識しているのだから,はっきりと何がしかのコメントを言うべきなのだ。
「お前ははっきり物事をいうなぁ。」と言うのは高校時代も,社会人になっても最初に言われたことだけれど,「私」を出さずして,これだけ多様化した今の時代に物事なんて言えるのだろうか。
「私」を出さないで記述することは,文化的・価値観がきわめて均質な状態で初めて可能になるものだと僕は考えている。文学を考えると,やはり平安時代の文学とか江戸時代の中期の文学になるとそういった「私」(主格)が消える傾向になる。やっぱり国内が乱れている時代は,漢文の影響がある奈良時代鎌倉時代にせよ,その後の戦国時代にせよ「私」(主格)が明確になるように思う。
「私」という主格を出すにあたって,客観的な視点がなければ周りの共感を得ることはないし,相手を受容しなければ議論は成り立たない。
客観的な視点とは,いわゆる理科的な数値データ*1を別とすると,「私」という主観を通して,相手の受容や対極にある要素のバランス感覚をいかに保つかにあると思われる。相手の受容や客観的なバランス感覚を保つための担保として存在するのが,「宗教」や「思想」や「文化」といった共通認識として周囲の一定数の人に持たれているものだろう。
そういう認識が100%正しいとは思わないが,なんとなく物足りないな,と感じてしまう部分だ。
そんなことを,帰りの新幹線の中でぼんやり考えていた。
まだまだ自分も短気で,足りない部分が多いなあ,と感じているんだけどね。

*1:とはいえ,今の自然科学のアプローチはGod,キリスト教の思想から来ていると思われるのだが。