藤田嗣治展

前回国吉康雄展を見に行ったので、今回は藤田嗣治展@国立近代美術館に行った。
会期が来週までなので、多いだろうな、と予想はしていたのだが、予想通り入り口で入場制限をしていた。人があまりに多いとやはりゆっくりと見ることはできない*1
今回はNHK後援という事で、藤田の「すばらしき乳白色」の肌が前面に押し出されている絵の前に人が多かった。この乳白色は、カンバスの下地を工夫し、顔料を何度も塗り重ねる事によって生み出されたもので、敢えて肌の部分だけその下地をそのまま見せることによってその透明感を生んでいる。僕たちが西洋絵画で思い浮かべるような「厚塗り」をして出す質感とは全く逆の発想*2であり、それが当時のパリでは斬新だったに違いない。
藤田自身はエッセイの中でこう書いている。

―皮膚という質の柔らかさ、滑らかさ、しかしてカンバスそのものが既に皮膚の味を与えるような質のカンバスを考案する事に着手した。第一がマチエール(質)の問題であったが、私が輪郭を面相筆を以て日本の墨汁で油画の上に細線を以て画いてみた、皮膚の実現肌その物の質をかいたのは全く私を以て最初として、私の裸体画が他の人の裸体画と全く別扱された事は、世間の大注目を引いた。―
(「画の離業」藤田嗣治エッセイ集より)

藤田自身は、この下地の技法を秘密にしたかったらしく、そう多くを語っていない。今回この展覧会に来ていた多くの人が注目していたのは、実際この下地だけのようだった。メディアは全く以て偉大なものである。
しかし僕自身の感じたところでは、藤田の絵の妙味は下地もさることながら、線の表現の方に重きがあると思う。昔、僕がパッと藤田の絵を見た時、線の画家だ、という印象を最初に受けた。細密さ(手の表現など)は、日本画の影響が大きいように見えるけれど、絵全体の(背景まで含めた)線の表現は、日本画とはまた異種のものを感じる。
さらに、「下地の見せ方」を規定するのは線の表現であるはず*3で、これは藤田自身が書き残しているエッセイの中からでも、かなりのこだわりがあった事がわかる。

線の妙味
僕の希望は絵を描く前に、物体と自分と一人になって――直感で描いてゆく。つまり訂正したり、思考したりした線ではなく、直感から生れた線の方が的確にして無限に深い。そして観者の心に訴えるところが多いと思う。或はあとで全体的に見た場合、誤りがあるかも知れぬ。けれども、感じを正直に捉え、健全なる線がひける。健全な線の方が病的な線よりも、常に本質的に優れているとは私は言わない。ただその方が正しいとだけは言える。
(中略)
そうした全ての意識や、雑念を念頭から去って、ただ無念無想の気持ちで、線の流れるままにまかして、最初の一筆からして、その結果を予想しないで描いてゆく。予想しない結果を生み出すということが一番面白い。ところが、中には線とは物体の輪郭を描けばよいと思っている画家がある。線とは、単に外郭を言うのではなく、物体の核心から探求されるべきものである。美術家は物体を深く凝視し、的確の線を捉えなければならない。
(「伝統礼賛」(藤田嗣治エッセイ集より)から抜粋)

 水墨画日本画は余白の美を、中心に描かれているモチーフと同等にあるいはそれ以上に大切にしたけれども、それは絵の中心部に置かれる事はなかった。つまりは周囲の余白の美である。
藤田はいわば逆転の発想によって、「余白」を絵の中心に持って来た、と僕は考える。藤田の絵全体の細線を見てみると、背景を描くのに用いた細線の密度の方が、中央の人物を描くのに用いた線よりもかなり高い密度で描かれている事がわかる。さらに、カンバスの下地を、そのまま中心に描かれた人物の皮膚として見せるというのも、絵の本質を「余白」によって表現するという考えに沿っている。僕が注目している藤田の独自性というのは、この「絵の中央の余白」である。余白に見えない、と一瞬思われる絵もあるが、中心の余白的な表現は、見て取れると思う。その切り口で藤田の絵を見返してみると、戦争記録画の時代を別にすれば、戦前、戦後どの時代においても彼の目指した画の一貫性を説明できそうである。
これに気がつけただけでも収穫だった。
今回の展覧会で、

腕一本・巴里の横顔 (講談社文芸文庫)

腕一本・巴里の横顔 (講談社文芸文庫)

を買って読んだ。少々値が張るが、他の人が書いたあまたの評伝等を読むよりも、自分のフィルターを通してその人物が捕らえられるという点で何倍もためになると思われる。

*1:ゆっくりと見ると主催者側に迷惑がられてしまう。

*2:印象派と比べればわかりやすいでしょう。

*3:日本画そして漫画を見ればわかるはず。