八ツ橋あれこれ

みんな大好き生八ツ橋。飲みでそういう話になったので、(生)八つ橋についてまとめてみよう。
以下、聖護院八ツ橋のHPなどから若干引用。さらにかなりの加筆をした。

菓銘のいわれ ―八ツ橋とかきつばた―
 八橋検校の歿後、彼の遺徳を偲んで、墓所のある京都黒谷金戒光明寺に参詣におとづれる人々が後を断ちませんでした。このため門弟たちは、八橋検校に因んで琴を形取った焼菓子を「八ツ橋」と名付けて、参道の黒谷の森の茶店で売り出しました。これが京名物「八ツ橋」の始まりです。

ところで、「八ツ橋」といえば「かきつばた」の花とともに、平安の歌人在原業平が想い起こされます。
 江戸時代、東海道五十三次の39番目の宿場として栄えた池鯉鮒(ちりふ)には、八橋町の無量寿寺の庭園で「かきつばた」の名所があります。この八橋は、平安の歌人在原業平(ありわらのなりひら)が、「かきつばた」の5文字を句頭も入れて歌を詠んだことに由来しております。
(以下、内容が冗長だったので、まとめると)
八橋検校と、伊勢物語の八橋の両方にちなんだもの、として売っていたらしい。
歴史的には、太平洋戦争直後「京名物としての八ツ橋」の由来を、高名な歴史学者に委嘱し、詳しく検証して行く過程で、最も信憑性の高い「八橋検校由来説」が一気に浮上し、採用されたので、現在はそれを前面にしているが、聖護院八ツ橋の包装紙は歴史ある「かきつばた」を採用しているようだ。
少し外れるが、八橋検校についてまとめてみると、

八橋検校」は江戸時代初期の筝曲演奏家、作曲家です。慶長十九年(1614)生まれ。筝曲「六段の調べ」は有名で、確か僕の中学の音楽の教科書にも採用されていましたし、正月にも「春の海」などと同様によく演奏されている曲なので、現在でも耳にする事が多いでしょう。蛇足ですが、ちょうどバッハの生まれる前の時代の人なんですね。
因みに、後でも触れていますが、「検校」は箏奏者の最高位を意味する「位」であって、名前ではありません。江戸時代においては、名字を持っていたのは武士と有力な商人くらいでした。人の名前は紛らわしいので屋号、身分などを頭につけて呼んでいたようです。例えば、江戸時代の牢屋の資料に目を通すと、牢番は出牢の際に「町人五郎八、出ませい*1。」などのように声を掛けていたようです。
 出生地には諸説ありますが、『筝曲大意抄』(山田松黒著/1779)以来、福島県いわき市が定説となっています。八橋検校は、幼少より目が不自由であったため、「当道座」(目が見えない人達による組織。検校・別当・勾当・座頭などの官位名がある)に編入。幼名を城秀といい、初めは大阪の摂津にて当道の表芸のひとつである三味線で名を高めます。その後、江戸に出て、賢順を始祖とする『筑紫流筝曲』の伝承者の一人・法水に出会い、筑紫筝の技法を学びました。以来、岩城平藩主・内藤義概(号:風虎)の庇護の下に筝曲の確立に励むことになります。
 寛永十三年(1636)には、最初の上洛をはたし、勾当の位を得ています。さらにこの頃、筑紫筝の奥義を極めたいという思いが断ち切れず、九州肥前国諫早の地(現在の長崎県諌早市)にまで赴き、そこで賢順の第一高弟である慶厳寺の僧・玄恕に師事し、ことごとく秘曲を受け得て江戸に戻ったという説があります。
 寛永十六年(1639)に再度上洛した折には、当道における最高官位「検校」に任ぜられ、上永検校城談と称しました。後に、その名は「八橋」と改めています。
 検校登官で自信をつけた八橋検校は、慶安年中(1648 ̄52)に筝曲の改革を行います。つまり、音楽面、詞章面とも筑紫筝の組歌(賢順十曲)とは大いに異なる新しい筝組歌十三曲を創始したのです。音楽面での大きな改革は、陰音階を基調とした調弦法を編み出したことでした。詞章面では、歌人でもあった内藤風虎の協力もあり、組歌の文芸的芸術性を一層高めるものとなりました。
 八橋検校は、この八橋十三組の創作と、段物として器楽曲三曲を作曲したことによって、近世筝曲の礎を確立しました。いわゆる筝曲八橋流の誕生です。
 そして、寛文三年(1663)頃から京都に移住したとされています。近世筝曲の普及と伝承に貢献する門弟を数多く育てましたが、貞亨二年六月十二日(1685・6・12)、多くの門弟達に見守られ惜しまれながら、静かに、音楽にかけた生涯の幕を閉じました。享年七十二歳。

八ツ橋、というお菓子はhttp://www.shogoin.co.jp/img/yatsuhashi.jpg←のように、箏を模ったニッキ風味の硬い焼き菓子。17Cごろから作られていたようです。本家西尾八ッ橋が最初であろうと思われる。
八ツ橋で明治、大正期に成功した老舗は、言うまでもなく、聖護院八ツ橋総本店や、井筒八ッ橋本舗
しかし、生八ツ橋に関しては、これら老舗は「老舗ゆえに」開発に出遅れた形となってしまった。この事実にはっきり触れるのは、タブーなのかもしれない。実際この件に関してはっきりと明示したページは僕の見た限りほぼ皆無である。
実際の聖護院八ツ橋総本店の生八ツ橋の由来のページを見てみると、若干ぼかした文章で書かれているのは、老舗のプライドのためであろうと思われる。
実際の生八ツ橋の原形を最初に開発したのは、聖護院八ツ橋のライバル会社の井筒八ッ橋本舗で、この会社によると昭和22年の事らしい。(聖護院八ツ橋は、昭和35年祇園祭山鉾巡行の前日、祇園町「一力」にて開催の「表千家即中会」のお茶席で出したのが最初。と由来に書いている。)
因みに、井筒八ッ橋本舗が出している生八ツ橋が「夕子」、聖護院八ツ橋が出しているのが「聖(ひじり)」、おたべ(株)が出しているのが「おたべ」である。
京都土産としての生八ツ橋の商品化は、おたべ(株)の「おたべ」が一歩先んじた形となった。その大ヒットにより、この3つの会社を軸とした生八ツ橋の争いが本格化する事となった。現在生八ツ橋を作っているのはこの3強を含めて16社(30社という情報もある)で、市場は100億円規模である。
現在、かなりポピュラーになった生八ツ橋の「抹茶味」もこの競争の中から生み出されたものであり、もし僕の記憶違いなら申し訳ないが、この抹茶味の商品化もおたべ(株)が一歩先んじていたはずである。

うーむ、どの世界も大変ですな。
生八ツ橋も掘り下げると、音楽、古典文学、経済(競争)など色々な要素が絡んでくる…。
感想、お待ちしています。あと、間違い等あると思いますので、そこは指摘してください。

*1:「出なさい」の意。