良かったり悪かったり

ようやくPCは復旧した。とりあえず元に戻った。メールが10日分読めなかったから、まるで浦島太郎のような感じだ。

最近は、自分の捕らえどころの無さに、打つ手がない。良かったり悪かったり。
まだ、回復途上で本調子ではないのかな。
調子のいい日は、まだいい。調子の悪い日は、もうどうしようもない。
調子のいい日は、普段通りの僕でいられる余裕がある。そうでない日は、とてもそんな余裕は無い。
調子の悪い日でも、人に会わなければならない用事がある。そんな時は、周りを傷つけるのが本当に怖いから、できるだけ、自分の棘が突き抜けて表面に出ないようにする。針の絶対通らない、重い鎖帷子を自ら着て、動きを押さえ込む。それは、以前から、何年も前からそうだ。
これまでの元気な時なら、この脱ぎ着は楽だったし、ほとんど意識無しに出来た。しかし、今は決してそんな状態ではない。
「些細なことを気にするから、いけない。大局的に物事を捉えればいい。」と、理性は言う。この前、誰かもそんな趣旨のことを、フッと何気なく言ってくれたっけ。
でも、僕の大切にする青白い火花は、これまでもずっと大切にしてきた、そこかしこで明滅する小さな火花は、そこでは全く無視されてしまう。
そっと扱わなければ壊れてしまう青白い火花を、体調を崩す前は重い鎖帷子を着た状態でも自信を持って扱えた。風が吹こうが、雨が降ろうが、関係はなかった。
今は、どうしても手が震えて、手元が狂って、握りつぶしてしまう。
こんな状態で、自分だけならまだしも、きちんと人間に接するのは、実際怖くてたまらない。かといって普段の道化を演じる余裕も今は無い。
鎖帷子を纏っていても、十分火花を扱えるような力をください。

牛になる事はどうしても必要です。 われわれは とかく馬になりたがるが、 牛には なかなか なり切れないです。 僕のような老獪なものでも、ただいま牛と馬とつがって 孕める事ある相の子な程度のものです。
あせっては不可ません。根気ずくでお出でなさい。
世の中は根気の前に頭を下げることを知っていますが、 火花の前には一瞬の記憶しか与えてくれません。
うんうん死ぬまで押すのです。それだけです。 決して相手を拵えて それを押しちゃ不可ません。
相手はいくらでも後から後からと出て来ます。そうして われわれを悩ませます。
牛は超然として押して行くのです。何を押すのかと聞くなら申します。
人間を押すのです。
漱石より龍之介への書簡より)

しかしやはり今、僕は牛にはなりきれない。